『シン・ウルトラマン』公開4年、銀色の身体より先に残った“対策”の手触り

『シン・ウルトラマン』公開4年、銀色の身体より先に残った“対策”の手触り

2022年5月13日に公開された『シン・ウルトラマン』は、2026年5月13日で公開から4年を迎えた。
4年という時間は、映画を「公開当時の熱」から少し引き離し、家の机や夜の部屋へ置き直すにはちょうどいい長さなのかもしれない。
大きなスクリーンで見上げた銀色の身体は、いまは配信の再生ボタンや、棚に残ったパンフレットや、ふと耳に戻ってくる音楽の断片として手元に来る。
その距離の変化によって、派手な場面だけではなく、映画の中で人間たちが息を詰めていた小さな場所が見えやすくなる。

4年後に残ったのは、銀色の身体だけではなかった

作品基本情報:
作品名:『シン・ウルトラマン』
公開日:2022年5月13日(金)
企画・脚本:庵野秀明
監督:樋口真嗣
音楽:鷺巣詩郎
主な出演:斎藤工、長澤まさみ、有岡大貴、早見あかり、田中哲司、西島秀俊 ほか

『シン・ウルトラマン』を思い出すとき、まず浮かぶのは当然、長い手足を持つ銀色の巨人だ。
胸にカラータイマーのない身体、赤いライン、のぞき穴を感じさせない顔、どこか彫刻のようにこちらの生活から離れて立っている輪郭。
でも、4年経ったいま強く残っているのは、その巨人が現れる前後にある人類側の“対策”の手触りでもある。
会議室、資料、机、視線、言葉を切る間、急いで歩く靴音、誰かが短く吸う息。
この映画は、空から降りてくる存在を見せる映画であると同時に、地上にいる者たちが「どうにかする」と言い続ける映画だった。

巨大なものが現れたとき、人間はまず見上げる。
けれど、そのあとすぐに下を向く。
足元の資料を見て、端末を見て、机の上に広げられた情報を見て、誰が判断するのか、どの言葉を使うのか、どの順番で動くのかを決めようとする。
『シン・ウルトラマン』の記憶が独特なのは、空の高さと机の低さが、同じ作品の中でずっと隣り合っているところだと思う。
銀色の身体があまりに遠いからこそ、紙や画面や椅子の背もたれの存在感が濃くなる。

人類側の“対策”が、妙に手元へ残る

禍威獣や外星人を前にして、人類側は圧倒的に小さい。
それでも映画の人間たちは、ただ小さく描かれるだけではない。
彼らは小さな身体のまま、部署を作り、呼称を整え、報告をまとめ、判断を上へ通し、また現場へ返していく。
その過程は、ときどき滑稽で、ときどき冷たく、ときどき妙に頼もしい。
超常の出来事を、いきなり神話にせず、まず行政と会議と説明責任の中へ置こうとする姿勢が、この映画の人間臭さになっている。

その人間臭さは、熱血の叫びよりも、むしろ声の温度で残っている。
早口の報告、抑えた返答、少しだけ荒くなる息、言い切る前に飲み込まれる迷い。
誰も完全には落ち着いていないのに、落ち着いているように振る舞わなければならない。
その緊張が、会議室の空気を薄くする。
『シン・ウルトラマン』を夜に見返すと、巨大な破壊音よりも、椅子が動く音や、人が立ち上がる寸前の沈黙のほうが耳に近いことがある。

デザインまわりの客観メモ:
作品サイトでは、成田亨氏のイメージや『真実と正義と美の化身』に触れながら、目の覗き穴を入れないこと、背鰭を付けないこと、カラータイマーを付けないことなどが、今作のウルトラマンの姿に関わる要素として説明されている

カラータイマーのない胸が、分からなさを残す

カラータイマーのない胸は、4年後に見てもやはり不思議な静けさを持っている。
点滅する分かりやすい焦りがないぶん、身体全体が時間そのものを背負っているように見える。
何分残っているのかを外から読ませる記号がないため、見ている側は、あの銀色の存在の内側にある限界を簡単には測れない。
それはヒーローの安心感を少し削る。
同時に、こちらの都合で消費しきれない異物感を残す。

その異物感があるから、人類側の“対策”は余計に切実になる。
目の前にいるものが完全には分からない。
それでも分からないまま、名前をつけ、分類し、作戦を立て、上申し、確認し、実行する。
この映画の人間たちは、未知を理解してから動くのではなく、未知を抱えたまま動く。
そこに、現代の生活に近い疲れがある。
仕事でも災害でも不調でも、私たちはすべてが分かってから対処できるわけではないからだ。

だから『シン・ウルトラマン』の残り方は、単に「懐かしい特撮映画」という形ではない。
むしろ、どうにもならないものを前にして、それでも会議を開く人間たちの映画として残っている。
もちろん会議だけで世界は救えない。
資料だけで怪獣は止まらない。
けれど、会議も資料もなければ、誰かの勇気はただの孤立になる。
この映画では、銀色の身体の美しさの下に、人類側の段取りと伝達と責任の線が細かく走っている。

巨大な話は、机と手のひらへ折りたたまれる

予告映像にも、その二重構造はよく出ている。
立ち上がる巨人の身体は圧倒的なのに、その前後には人間の顔や現場の緊張が差し込まれる。
巨大なものを見せる映像でありながら、同時に「見てしまった人間たち」の映像でもある。
そこが『シン・ウルトラマン』の記憶を、ただのスペクタクルから少しずらしている。
観客は巨人を見るだけではなく、巨人を見た人間の目つきも見ることになる。

机の上に置き直して考えると、この映画のベーターカプセルも面白い。
手のひらサイズの金属の道具が、あまりに巨大な変化の入口になる。
世界を揺らす力が、ポケットや手の中に収まる小さな物として存在している。
その縮尺のずれは、映画全体の構造にも似ている。
国家や宇宙や種の存続といった大きな話が、会議室の机、端末の画面、人の掌、短い発話へ折りたたまれていく。

この折りたたみ方が、公開から4年経った今の生活に妙に合っている。
大きな出来事は、いつも大きな姿のまま私たちの部屋へ来るわけではない。
通知の一行、会議の予定、画面の端に出る赤い印、夜中に押す再生ボタンとして来る。
『シン・ウルトラマン』は、巨大ヒーローを描きながら、そうした手元のスケールを忘れない映画だった。
だから見返したとき、スクリーンの外にある自分の机まで、少しだけ映画の地続きに見えてくる。

美しさと面倒くささが、同じ画面に並んでいる

そして、銀色の身体はその上に静かに置かれている。
人間たちの対策がどれほど積み上がっても、あの身体は完全には人間の制度の中へ入らない。
名前を呼ばれ、分析され、利用され、期待されても、どこかで人間の言葉から余っている。
その余り方が、美しさになっている。
長い手足のシルエットは、強さの誇示というより、こちらの世界にぴたりとは合わない線として残る。

『シン・ウルトラマン』の好きなところは、ヒーローを神棚に上げきらないところでもある。
銀色の存在に憧れを向けながら、同時に、人間の側の事務的な疲れや判断の遅さや、制度の重さも捨てない。
美しいものを美しいまま置き、面倒なものを面倒なまま置く。
その並べ方は、きれいごとだけの希望よりも長く残る。
現実に近いざらつきがあるから、非現実の光がかえって澄んで見える。

4年前の劇場で受けた衝撃を、ただ「あの頃はよかった」と閉じてしまうのは少しもったいない。
いま見返すなら、巨大な戦いの奥にある、人類側の呼吸を聞きたい。
誰が資料を持っているのか。
誰が言葉を選び損ねるのか。
誰が黙って立っているのか。
そういう細い部分をたどると、映画はまだ新しく動いている。

4年経っても、会議室の空気がまだ残っている

公開4年の節目に残っている『シン・ウルトラマン』は、銀色の巨人が暴れる映画というより、対策を続ける人間たちの上に、銀色の身体が静かに降りてくる映画だ。
机と空、資料と光、呼吸と金属。
その距離のあるもの同士が、同じ画面の中で並んでいる。
だからこの作品は、見終わったあとも、派手な決着より先に、会議室の空気や手の中の小さなカプセルを思い出させる。
そしてその思い出し方こそが、4年経ってもまだ『シン・ウルトラマン』が生活の手元に残っている理由なのだと思う。

参考ソース

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