有明8階でゴッホを浴びる、RÊVE DES LUMIÈRESという光の夢

有明8階でゴッホを浴びる、RÊVE DES LUMIÈRESという光の夢

有明の8階という高さが、まず少し変だ。
絵を見るなら壁の前へ行く、という慣れた身体の手順が、TOKYO DREAM PARKの上階でいったん外される。
RÊVE DES LUMIÈRES(レーヴ・デ・リュミエール)は、ゴッホの絵を眺めに行く場所というより、額縁からこぼれた色の中へ足を踏み入れる場所として気になる。

『ひまわり』の黄色、『星月夜』の青、『花咲くアーモンドの木の枝』の淡い花色。
その名前を聞くと、反射的に絵画の前で立ち止まる自分を思い浮かべる。
けれど、ここで用意されているのは原画展示の静けさではなく、壁と床と音響が同時に動く約40分の映像プログラムだ。

106台の高精細プロジェクターと63台の立体音響スピーカーという数字は、設備説明として読むより、身体の逃げ場を少なくするための布陣として読んだほうがしっくりくる。
前を見る、横を見る、足元を見る、見上げる。
鑑賞の姿勢が、暗いホールの中で何度も組み替えられていく。

RÊVE DES LUMIÈRES(レーヴ・デ・リュミエール):
東京・有明のTOKYO DREAM PARK 8階に、2026年6月12日オープンした没入型デジタルアート施設。
名称はフランス語のRÊVE=夢、LUMIÈRES=光を組み合わせたもの。
主催はテレビ朝日とぴあ、企画はCulturespaces STUDIO。

額縁がほどけると、絵は床にも落ちてくる

RÊVE DES LUMIÈRESでいちばん面白いのは、ゴッホの名画を大きく映すことそのものより、絵画との距離の取り方が変わるところにある。
美術館で絵を見るとき、こちらの身体はかなり礼儀正しい。
壁の前で止まり、少し離れ、近づきすぎないようにしながら、目で表面をなぞる。
そこには、絵を傷つけないための緊張と、額縁の向こう側へ入れないという当然の境界がある。

没入型デジタルアート施設としてのRÊVE DES LUMIÈRESは、その境界線を別の形へ変える。
壁は絵を支える面ではなく、色が広がる面になる。
床は歩くための面でありながら、同時に映像を受ける面にもなる。
音はスピーカーの位置を意識させるより先に、身体の外側から回り込んでくる。
鑑賞する姿勢が、いつのまにか浴びる姿勢へずれていく。

このずれは、ゴッホという題材と相性がいい。
筆跡や色彩の強さを、画面の前で読み解くのではなく、空間の中で受ける。
ひまわりの黄色は、花びらの形より先に、温度のように近づく。
星月夜の青は、夜空の説明より先に、足元や背中へ薄く回り込む。
アーモンドの枝は、上を向いた首の角度の中で、春の軽さを持ちはじめる。

有明8階の暗いホールで、黄色と青は作品名から離れる

第1弾上映「Van Gogh ゴッホの傑作たち」:
メインホールで上映される約40分の映像プログラム。
『ひまわり』『星月夜』『花咲くアーモンドの木の枝』などを扱う。
ゴッホの作品を原画展示としてではなく、壁・床・音を使った空間映像として体験する構成。

第1弾上映作品として置かれる「Van Gogh ゴッホの傑作たち」は、約40分の映像プログラムだ。
扱われる名前はとても強い。
『ひまわり』、『星月夜』、『花咲くアーモンドの木の枝』。
その並びだけを見ると、つい名作を確認しに行く感覚になりそうになる。
けれど、ここでの中心は、どの絵を何分見られるかではなく、色がどの面へ逃げ、どの音と重なり、どの高さから降りてくるかにある。

『ひまわり』の黄色は、額縁の中に収まっているとき、花瓶や花びらや背景として見ることができる。
それが壁や床へ広がると、黄色は物の色というより、その場の明るさそのものに変わる。
花を見ているのに、部屋の温度を浴びているような感覚が先に来る。
黄色が正面から来るのか、足元から立ち上がるのか、それとも横から肩へ触れるのか。
同じ色でも、置かれる面が変わると、身体が受け取る意味はかなり変わる。

『星月夜』の青も、同じように画面の外へ出る。
絵としての星月夜は、空の渦、村の灯り、糸杉の黒さを見比べながら目で追える。
空間映像になると、渦は視線の奥へ行くだけでなく、床の上や壁の隅にも流れ込む。
夜空を見上げるのではなく、夜のほうがこちらへ降りてくる。
そのとき青は、静かな背景ではなく、暗いホールの空気を染めるものになる。

『花咲くアーモンドの木の枝』は、黄色や青に比べると、もっと細い身体感覚を連れてくる。
枝の線、淡い花、空へ伸びる余白。
これが大きな空間へ移されると、絵の前に立つというより、枝の下に入る感覚へ近づく。
首を少し上げる、視線が斜めに流れる、足を止める位置を迷う。
淡い花色は、派手な光ではなく、暗い室内で一瞬だけ呼吸を軽くする余白として働く。

ガウディの10分が、色のあとに骨組みを残す

同時上映「Gaudi サグラダ・ファミリアを作った天才建築家」:
メインホールで上映される約10分のショートプログラム。
サグラダ・ファミリア、グエル公園、カサ・バトリョなどを扱う。
ゴッホの色彩から、ガウディの建築線やステンドグラス的な光へ感覚を切り替える補助軸になる。

同時上映の「Gaudi サグラダ・ファミリアを作った天才建築家」は、約10分のショートプログラムとして組まれている。
ゴッホの色彩のあとにガウディの建築が来る、という順番はかなり効く。
絵の具の黄色や青で身体がほぐれたところへ、今度は線、柱、窓、装飾、光の抜け道が入ってくる。
感覚の焦点が、色の広がりから建築の組み立てへ切り替わる。

サグラダ・ファミリア、グエル公園、カサ・バトリョという名前には、建物でありながら、どこか生き物の骨や貝殻の内側を思わせる形がある。
それを映像空間で受けると、壁は絵画の面ではなく、建築の皮膚にもなる。
ステンドグラス的な光は、色彩をきれいに見せる飾りとしてではなく、空間の向きを変える力として入ってくる。
ゴッホの色が体温のように届いたあと、ガウディの光は、身体の中に細い柱を立てる。

10分という短さも、添え物の短さとは少し違う。
長い時間で包み込むVan Goghに対して、Gaudiは感覚の切り替えを担う。
黄色と青で満たされたあと、建築の線が入ることで、光が面から骨格へ変わっていく。
ひまわりの花びらを浴びた目が、今度は塔や窓のリズムを追う。
その落差があるから、メインホールの時間は絵画映像の連続で終わらず、色から建築へ、皮膚から骨へと移っていく。

9つの空間は、鑑賞順路より身体の動詞でできている

施設スペックと9つの空間:
施設規模は1,500平方メートル。
106台の高精細プロジェクター、63台の立体音響スピーカーを使用。
ロビー、イントロ、アトリエ、メインホール、メザニン、スパイラルシリンダー、インフィニット・ホライズン、360°キューブ、ショップで構成。
歩く、見上げる、包まれる、浮遊する、といった身体の動きへつながる空間構成になっている。

施設スペックを見ると、ロビー、イントロ、アトリエ、メインホール、メザニン、スパイラルシリンダー、インフィニット・ホライズン、360°キューブ、ショップという9つの空間が並ぶ。
名前だけ拾うと順路の説明に見える。
でも、この並びを動詞で読むと、RÊVE DES LUMIÈRESの性格が見えてくる。
入る、歩く、見上げる、一望する、包まれる、回り込む、浮遊する、余韻を持ち帰る。
絵の前に立つための施設ではなく、身体を何度も別の姿勢に置き直す施設なのだと思う。

メインホールは、約40分のVan Goghと約10分のGaudiを受ける中心になる。
その外側に、メザニンのように高低差を持つ場所があり、スパイラルシリンダーのように円筒の内側へ誘う場所がある。
スパイラルシリンダーは直径9.5メートル、高さ6.6メートルとされていて、数字として読むだけでも、視線が平面に留まらないことが伝わる。
ぐるりと囲まれた面の中で、首や足の向きが自然に変わる。

インフィニット・ホライズンではConnecting Landscapes、360°キューブではSpace Walk 宇宙遊泳が置かれる。
ここで面白いのは、ゴッホやガウディの名前から少し離れたあとも、施設が身体を別の方向へ運ぼうとしている点だ。
風景をつなぐ、宇宙を遊泳する。
美術展の延長として記憶するより、暗い建物の中で重力の感じ方を少し変える場所として読んだほうが、9つの空間の輪郭が立つ。

有明のTOKYO DREAM PARK 8階という場所も、この読み方に合っている。
地上の通りからそのまま絵の前へ滑り込むのではなく、いったん上階へ移動して、日常の床から距離を取る。
そのうえで、施設内の床に映像が落ちてくる。
地面から離れた場所で、別の床を見つめる。
この二重の床の感覚が、RÊVE DES LUMIÈRESという名前の夢と光に、妙に具体的な重さを与えている。

チケットの時間より、身体に残る時間を考えたくなる

日時指定チケットで入る施設という点は、かなり現代的だ。
入場時間を選び、最終入場の時刻を意識し、会場へ向かう。
一方で、内部で起きることは時計の目盛りとは違う時間の流れを持つ。
約40分のVan Gogh、約10分のGaudiという上映時間はある。
でも、そこで残るのは分数の長さより、黄色がどのくらい近くまで来たか、青がどれほど暗い面を満たしたか、音が身体の外側でどう回ったかという記憶になりそうだ。

写真や動画の撮影が可能と案内されている点も、少し考えたくなる。
記録できる場所であることは、現代のデジタルアート施設らしい。
ただ、スクリーン越しに持ち帰れるものと、その場で身体に当たる光は同じではない。
画像に残るのは、色の形と画面の構図だ。
身体に残るのは、床の明るさ、スピーカーから回る音、暗がりで見上げた首の角度、横を向いた瞬間に壁がまだ続いていた感覚のほうだと思う。

RÊVE DES LUMIÈRESを美術展の新顔として眺めると、ゴッホ、ガウディ、プロジェクター、立体音響という情報の束になる。
でも、有明8階の暗いホールとして読むと、輪郭はもっと身体寄りになる。
絵は壁からはみ出し、床に落ち、音と一緒にこちらを包む。
名画の知識を増やすための時間というより、絵画に向かう姿勢を一度ほどくための時間。
暗いホールの床に青が落ちて、ひまわりの黄色が壁から近づき、見上げる首の角度がまだ戻らない。

参考ソース

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